アロマ少年が言う自説

自説を思うがままに展開するブログ。不定期更新。なんでもあり。

関ヶ原の勝手な考察

これ、傑作


の9:55~始まるやつ
白血球マン>バイキンマンアンパンマン
死ねえぇこの雑菌がァァ!(某細胞

後、これも面白いゾ


※お使いの初音ミクは、正常ではありません。

うっせぇ

 

 

関ヶ原合戦考察

いきなり一本目

関ヶ原合戦の考察~西軍はなぜ負けたか~

まず、大体の流れを言っていこう。

第一の焦点:毛利勢の沈黙

西軍総大将の毛利輝元大坂城で沈黙、
南宮山で待機していた毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親らが撤退した後、島津軍が撤退しているが、
小早川は寝返ったし、吉川は動かなかった。
毛利・安国寺はやっぱり動かなかったし、
西軍の警備が疑われる。

第二の焦点:「第二次上田城合戦」、『奥州関ヶ原

関ヶ原野戦と同じころ、2つの城で攻防が繰り広げられていた。
まず、美濃・関ヶ原に程近い、信濃上田城徳川秀忠の陣と真田昌幸の陣が対峙、
それは真田信之の陣と真田信繁の陣の対峙でもあった。
そしてもう一つ、長谷堂城での最上義光・伊達(留守)政景の陣と、
直江兼続の陣の対峙である。

上田城の大敗、秀忠の失策

徳川秀忠上田城からの真田軍の挑発に対し、歴戦の家臣の説得を全て無視。
何しろ、上田城は一度徳川の大軍を破ったからである。
それでも秀忠は出陣してしまう。
結果、今回も散々に討ち破られ、秀忠は遂に関ヶ原合戦に参陣できなかった。

長谷堂城合戦

秀吉の死後、1600年6月に会津征伐のため出陣していた徳川家康が、7月24日下野小山において石田三成の挙兵を知って反転西上する。家康は南部利直・秋田実季・戸沢政盛・本堂氏・六郷氏・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。しかし、東軍諸将を先遣隊として東海道より西へ軍を進め、自身は江戸において東軍諸将の引き留め及び西軍の切り崩し工作を行ったため、奥羽諸軍は自領に引き上げ、伊達氏と上杉氏も伊達氏が7月に攻略した白石城の返還を約し和睦を結んでしまう。事態の急変に対し、最上義光は帰国をする南部氏や出羽の諸氏と起請文を交わし、家康の意向に従うこと、事があらば助け合う事を誓った。ただし、米沢口の主将であった義光は出羽方面における軍事指揮権は引き続き自分が持っていると解したのに対し、諸大名はあくまでも家康の指揮命令によって戦うと理解していた。

9月1日、岐阜城落城の知らせを受けて、ついに家康が江戸より出陣する。また、徳川秀忠および最上義光次男最上家親も上田方面に出陣する。これにより上杉氏に対する家康の脅威は去り、上杉領北方において上杉と対決する姿勢を示すのは義光だけとなり、上杉景勝は義光を無力化しようする。最上氏を滅ぼすか味方に付ければ上杉氏にとっては後顧の憂いが無くなり、家康と決戦に挑めるからである。逆に家康の反転により、上杉氏の北方に孤立した形になった義光は窮状に陥り、上杉方に嫡子を人質として送る等の条件で山形へ出兵しないように要請している。しかし義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領庄内を挟みうちにしようとする形跡があるのを知った上杉氏は激怒し、出陣を決定する。

直江兼続は畑谷城を落としたあと長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8Kmのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取り掛かることは明らかだった。9月15日最上義光は嫡男最上義康を当時北目城(仙台市太白区)にいた伊達政宗に派遣し援軍を依頼。伊達氏の重臣片倉景綱は両氏を争わせて疲弊させるべきであるとして諌めたのに対し、政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上(義姫・保春院)のために最上を見捨てるわけにはいかない」(『治家記録』)と述べ、16日付書状にて政宗は叔父留守政景を救援に派遣することを決める。

この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備し、攻め手は直江兼続率いる上杉軍18000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は寡兵ながらも防戦し、翌日には200名の決死隊を率い上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。
この時の鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたという。

9月17日、兼続は春日元忠に命じ、さらに城を攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ち付けた。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。

そして29日に、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの前田慶次に諫められ撤退を決断したとされる。翌日最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転する。更にその翌日上杉軍が撤退を開始、最上・留守連合軍が追撃した。富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど激戦となり両軍多くの死傷者を出した。追撃軍を迎え撃つため直江兼続は自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめ、3日荒砥に退却した。前田慶次や水原親憲などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り4日米沢城に帰還した。『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」とある。

この撤退戦は後世まで語り草になった。最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」とおおいに賞賛したという。

また、最上勢は全戦線で反攻に転じ、1日には寒河江・白岩・左沢を回復すると、撤退から取り残された谷地城に籠る下秀久も11日間の籠城のすえ降伏した。

(いずれもWikipedia引用)

関ヶ原合戦:結論

さて、秀忠などと、有力武将らが参戦しなかったにも関わらず、
東軍はなぜ勝てたのか?
それは、毛利の内応だろう。
小早川、吉川と「毛利両川」と恐れられた者達を内応させた上、
秀秋には寝返り、広家には沈黙の内容で内応させたのだろう。
挙句、総大将の輝元は大坂城で沈黙を守らせ、
毛利・長宗我部・長束には広家の妨害で進ませなかった。
毛利両川勢の内応と、広家の南宮山妨害、
更には秀秋の影響で脇坂・朽木・小川・赤座が次々寝返ったことも大きな要因だろう。
挙句、毛利家は「領土は保証する」という家康の口車に乗せられ、動かなかった。
その後、領土は大幅減封され、事実上嘘をつかれたということだ。
ちなみに、上杉家はその後徳川家に仕え、家を存続させた。

え~と、考察終わり。
じゃ、今度、今度、テコンドー。